作為の無い作品6 ほんとうの日本人のこころ |
途中で、パンフレットが入りましたが、今日はまた“日本人のこころ”について少し話しを進めてみたいと思います。私が、仏陀以外の日本仏教の僧侶の中で、最も尊敬できる人をあげると、道元と良寛がトップ2でマイフェーバリットです。
良寛は、私の祖父で日本画家の津田青楓が、良寛の書の臨書をしていて、独自の境地を開いた事を知っていたのと、20歳前後の頃に、上野の博物館で実際に良寛の書を真近に見て、解らないなりに、感動したのを覚えています。
良寛さんの人となりをなつかしく、やすらぎを与えてくれるものと理解したのは、やはり最近ですね。
写真右: 良寛晩年70歳の時に知り合い、相思相愛の恋(と言い得る)に落ちた30歳の貞心尼の来訪を待ちわびて読んだ歌。(写真をクリックするとおおきくなります)
写真中、中の下 良寛が彼の人生観を吐露した漢詩
ところで、数ある宗教関係の本の中で、私と感性の傾向がほぼ同じ著者がいます。 栗田 勇という元々はフランス文学を研究した人ですが、彼の興味の対象はまさしく道元と良寛です。道元の正法眼蔵を詩人の感性で、直覚するところもすごく共感できます。
上の良寛の漢詩についての栗田さんの解説は、[身を立つるのは俗世で立身出世することだけではない。宗門のなかで、大寺の住職となることもまた、身をたてることだ。しかし良寛は、それも意識的に拒否した。中略 「身を立つるに懶く」と用いられた「懶い」とは何だろうか。他に参禅するのも懶い(ものうい)という詩もある。
昔から禅者では懶ということは、必ずしも悪い意味ばかりではない。あえて我意我欲を貫こうとしないで、自然にしたがうとき、しばしば懶惰な姿となるからである。
立身も、参禅も、我欲と意志によって努力するかぎり、そのことにとらわれる点では同じである。立身出世にむきになって反対し、あるいは、必死に捨てようとするのも、我執妄執のもととなる、懶とは、それはそれと現世に卑俗のあることをみとめながら、とらわれることなく、身を自然に任せている。 だいぶ長くなりました。今日はここまで。ごきげんよう。
写真 最下:出雲崎から望む夕日の佐渡の島影