家具のデザイン その36 |
おはようございます。9日ぶりでUPします。前回は民芸調の家具の平成版のUP DATEははたして可能だろうか?というところまで、お話しました。
結論からいうと、可能は可能ですが、それをする意味が、現代の生活では大へんに薄れている。という事になります。
民芸調の家具は、箪笥を中心に、その様々なバリエーション(車箪笥,船箪笥、帳箪笥、等々)戸棚各種、衝立、机各種、長火鉢、脚立等、どれひとつとっても、現代の生活に合わなくなっています。 例えば衣装箪笥は、今では、ウォーキング・クロゼットで置き換えられ、家の建築時に作り付けられています。キッチンの収納、リビングの本棚、等ほとんどの収納家具の役目は、作りつけの設備で置き換えられています。
ですから、いわゆる置き家具としての箪笥や、戸棚は、インテリアを演出する為のオブジェ、もしくは、趣味的で特殊なもの、例えば陶器コレクターのための陶器陳列棚、お酒が趣味の人のホームバーカウンター等々しかなく、需要はごく少ないのが現実です。しかも意匠や機能を今の生活に合うように考えていくと、今、工場で生産されている、洋家具とほとんど区別が付か無いものになってしまいそうです。
しかもオブジェとして、インテリアの演出に使うなら、年季が入ったアンティック物のほうが、金具にしても、材料にしても重厚で味があり、少々高くても、投資する価値があります。
さて、こんなところが、今の木工家といわれている人達が民芸調の家具を作らない理由です。単純に言えば、作っても売れない(需要が無いもしくは大変少ない)からです。
ただ、これから先の事を考えると、古民家の再生とか、日本の伝統文化を大切にした、新しい家造りという観点は大切にしたいので、建築と共同で進めるプロジェクトには可能性が有りうると思います。あの醜悪な建売住宅が、一日も早く無くなってほしいと切に願っている私です。(現実には、まだ増えるんでしょうね)
さて、日本の和家具の歴史をざっとおさらいしていますが、いよいよ大詰にはいってきました。
明治から現代に至る、木工作家達の歴史です。明治になると、職人とは別な、木工の分野の作家が出てきます。明治6年のウィーン万国博覧会をはじめとして、日本政府主催の殖産興業を目的とした、多くの天覧会が催され、家具類もこの種の展覧会に出典されることが多くなりました。
明治維新で、一気に国際化を標榜する日本政府は、外国で人気のある漆工芸をはじめとする、伝統工芸品の生産を奨励、日本の主な輸出品にしようと、画策したのだと思います。欧米の列強に比べ、産業革命が半世紀以上遅れた当時の日本には、これらの工芸品以外に、外貨を稼げるものが無かったからでしょう。
さて、そんな社会的な背景の中、東京美術学校を皮切りに全国に美術学校が開校し、民間の美術工芸団体が設立されるなどといった気運の中で、次第に、作家意識が生まれていったと考えられます。
この頃の展覧会に出品される作品は、漆工芸を駆使した古典調が主流で、硯箱・手箱・文箱の箱類、棚。卓などが中心でした。作家も漆芸作家と呼ばれ、和家具でも古典調がオーソライズされました。
これらの作家としては、柴田是真(しばた・ぜしん) 川之辺一朝(かわのべ・いっちょう) 松田権六等がいます
。 一方、大正から昭和にかけての和家具の盛行を背景に、指物職人の中から、宮崎平七、駒沢利斎、氷見晃堂(ひみ・こうどう) 前田桑明、前田南斉、須田桑月、稲木東千里らが輩出しました。
又唐木細工では、竹内碧外(たけうち・へきがい)、民芸系では黒田辰秋(くろだ たつあき)柳 宗悦の”しらかば派”と同調した人ですが、戦後も積極的に制作活動を続け、洋家具の分野にも取り組み、伝統にとらわれない独自の和家具の道を切り開いた人です。
今回は、この辺で終了とさせていただきます。 次回をご期待ください。