家具のデザイン その6 |
こんにちは、暑いですがー続けます。
さて、19世紀後半にパリがその基礎を、ナポレオン3世と当時のセーヌ県知事だったジュルジュ・オスマンによって築かれたことは”家具のデザイン その2”で書きましたが、約100年後の1985年に、ルノーのクリオというメジャー車種(ルノー5/サンクシリーズの後継車種をエトランジェ(外国人)の私にデザインをするようにという依頼がルノーからあり、この時の私の言わば”デザイン コンセプト”は”パリに似合う車”でした。私にとって何が、パリなのかをご理解していただけるかなと思い、今まで長々とパリの「成り立ち」についてお話して来た訳ですが、私にとって本物のアートが”生きている”という実感を感じさせてくれる様に、パリという街は私に”生きているという実感”、”生きていて良かったという感じ”、”生きるというのは楽しい美しい”という実感を感じさせてくれる街なんです。
まさかナポレオン3世が意識的にそういう街にしようとしたわけはないですが、少なくとも当時としてのあらゆる面で世界最新で、機能的で王政的な権威主義的な所が無い街。 清潔で、光と風と緑にあふれている街。にしようとはしたはずです。ナポレオン3世の美意識と東洋の小国のカーデザイナーの美意識が100年の時を超えて共鳴したと言えます。今でこそ、日本の”自然”は世界で一番美しいと言いきれるようになりましたが、若い頃は、とにかくパリ狂いで「パリはゴミまで美しい」と言って皆の顰蹙をかっていました。
これはあながち間違いではなく、どんなに生活感が出ている場面でもそれなりの生活の美しさがある(と私は思う)のがパリという街です。
こうして書いていると、好きな女性の事を、他人(ひと)に一生懸命話している様ですが、まあ”パリに恋いしている”のかもしれません。
英語のthrillは日本語では恐怖におののく感じに、一般的に思われていますが、感動やうれしさに震える時も、よく使われます。はじめてパリを訪れた時、私はまさにthrillしました。
クリオのデザインに込めようとしたのは、私のこのthill感でした。これなら日常パリに住んでいないエトランジェである自分でも勝てると思いました。なぜならこの時、私は世界で一番パリを愛していたからです。
デザイナーとして、もう1つ大切にしたかった所は、パリの日常生活を反映した”タタズマイ”(存在感)です。
表のメインストリートに似合うだけで無く、1本道を入ったplace(プラス)のような所にひっそりと停まっている姿が、パリらしくなる様、そして、マロニエの落ち葉の下、パリの恋人達がその(車の)窓ごしにkissをするシーンが様になる車。そんな車をイメージしていました。
そんな感性を大切にしたデザインコンセプトが通じたのか、販売してみると、パリ中はクリオで埋もれた感じでした。
持って回った様な”物言い”はガラではないですが、物を創造する人達(特に若い人達ーもちろん創作者として私もまだ若造ですが)には、本当に豊かな感性を育んでほしいと思います。すべての過去の豊かな経験が未来の創造の糧です。デザインで言えば、how toはある意味で、誰でもある程度がんばれば可能です。しかし、人間にとって何が豊かな瞬間なのか、本当に”気持ちの良い空間”とはなにか?品格のある商品がつくれるか?などは作り手の生き方に深く関わってくる問題です。毎日、物を創っていない瞬間でも、感性は働かせることは出来ます。そして対象と自分が一体に成る所が仏教でいう涅槃です。
クリオの開発のエピソードを聞きたいというコメントをいただいているので、思い出すままに書いてみます。第2の故郷巴里物語にも書いていますが、フランスのルノー公団(当時ルノーは半官半民だった)が日本の若手の無名に近いデザイナーを
採用した訳は、こちらの巧みな(笑)プロモーションもありますが、日本の自動車業界全体が上昇機運で、世界中に車を売りまくっていた為。海外のメーカーから見れば、やはり脅威で、「どうして、日本車ばかりが売れるんだろう?」と思ったのはよく理解出来ます。品質や信頼性に加え、デザインも良くなりました(残念ながら継続はしませんでしたが、世界各国の自動車ショーでも日本車が一番良く見えた時がありましたし、我々の意識も欧州を抜いたと思っていました)そして、当時、ルノーはルネサンスと呼ばれた程の大社内改革がジョルジュ・ベス新社長の下で、スタートしたばかりでした。従来ルノーは半官半民で、開発姿勢や企業風土はかなりフランス的というか、ある意味贅沢、無駄の多い物でした。
彼はすべての無駄をはぶき、会社を新しい時代に対応させる為に、今までと全く違うやり方を取ろうとしたのだと思います。それも我が事務所が選ばれた大きな理由でしょう。当時は裏の事情は解らないので、日本とフランス間のエアチケットは当然の事の様に1st. classを要求したところ、うち(ルノー)のベス社長でさえ、今はbushiness classを使用しているので、なにとぞごかんべんをということでbusiness classにされてしまった事もありました。
それにしても、驚き感心したのは、ルノーの当時ヘッドクォーターのクラシックで豪華なこと、わざわざ、我々のためにゲスト・ルーム(建物全てがVIP用ゲスト・ルームビル)でディナーをふるまっていただきました。
その歓待の仕方が、きわめて粋であか抜けていて、悲しいかな、とても日本のメーカーでは、ひっくりかえっても出来ないレベル。 まず、「今回、我々の為にデザインをお引き受けいただき、誠に感謝に耐えません。つきましては、わずかばかりの感謝の印として、我が社の特別ゲストルームで心ばかりのディナーを差し上げたいが、わがゲストビルは現代を代表する世界的に著名なモダンアート(ここが憎い)のコレクションによりそれぞれ別の7つのダイニングルームがあります。お客様が、特別お好きなアーティストがございましたら、ご指摘いただけば,ご用意致したいと思います。当時、こういう風に歓待されたのは、さすがに初めてだったので、内心少し動揺しましたが、ここで無粋なふるまいをすれば、日本のデザイナーの男がすたるという気持ちで、まったく当然なごとく、そうですか、「それでは私はヴァザルリの間にしていただきましょうか」(当時人気のあったヴァザルリ、ラウシェンバーグ他そうそうたるモダンアートの、メンバーのコレクションダイニングルームが確か7つ程あったと思います)
今から考えると、これも放漫経営のなせる技、ということでしょうが、こういう企業文化はむしろ残したほうが良いと私は思います。限界に近く長くなりました。続きは次のUPで、ごきげんよう、おやすみなさい。
この記事はMy History のジャンルのパリにthrillした日=ルノークリオのデザインコンセプトと同じ内容です。