歌のこころ (仏教とは何か?その12) |
今晩は、今日は良寛さんが「歌の辞」と称して、歌(俳句、短歌、長歌)について、まったく既存の固定観念や、歌の権威といわれている人達の常識をはるかに超えた革新的な事を述べているので、やはりこの人はただものではないという確信をもつに至りました。そんなわけで今日は、その「歌の辞」を紹介しつつ、少々マンネリぎみですが、小雨にけむる小平市小川町周辺の草花と木、景観をお届けします。まづは良寛さんの「歌の辞」から
よき歌をよまむとするはわろし、おもしろき歌をよまんとするはわろし。歌の中にはよきもやさしきもあるなり
すべての物に目あてをするは見なひが言なり。歌はやさしくたけ高くよむ物なりと教ふるは、みな歌の道にくらき人のいふことなり。そもそも歌は我が国のものにあらず、人のこしらへたるものにもあらず。古しえのみにありて今はなきにもあらず。人の心のうごく心のはしばしを文字にあわせて、心やりにうたふものなり。近くいはば、泣くは歌なり、笑うは歌なり。歌の心とて別にあるものにあらず。我は歌をよくこころえたりとおもうは、まだしきときのことなり。
此道にこころえやうありといはば歌にはあらず。古今よりきざして、それよりしもつかたは歌にはあらず。歌のまねをするなり。ついには月花の中だちとなり、うかれ人のつぶねとなりをはんぬ。
今の世の人もなどか歌なからんや。かしこきおろかなるをとはず、都ひなをわかたず、朝夕ものにふれ、心のうごくところみな歌なり。これを誰よりか伝えて誰にかをしへん。もし、しかあらずとおもはば、こころみに古の歌を
もておのが心にあてて見よ。我も知らず、人もしらず、おのずから事にふれてうごく時の意を、すぐさまに言葉に
あやなし、聞きにくからぬようにして、声を長くしてうたひて、そのをりの心をやるものとはしるべし。
猶もいはば、心のうごかざる時は歌なり、うたはざる時はうたなり。歌をしらずして、よそごとにのみこれをうたうとおもひてゆく時はうたなり。うたはうたのうたなり。うたにあらざるは、歌にあらざるの歌なり。(心即歌、まさに俳禅一味)
古い仮名使いや、言いまわしで、慣れないと解りにくいかもしれませんが、落ち着いて読めば、だいたいの所はわかります。ポイントを説明しますと、歌の場合でも、良寛さんのもっとも嫌ったのは、作為に満ちた表現でしょう。一番最初にいい歌を読もう、おもしろい歌をつくろうとするその意図(人のはからい)そのものを否定しています。これは、このブログでも再三書いていますが、芸術の本質の問題です。さらに言えば仏教の悟りの問題であるともいえます。あるがままの天真爛漫な心を、その時々にあわせて言葉にしていくのが歌だと言っています。
感情の動き(感受性)を非常に大事に考え、歌の世界の決め事や、言葉上のテクニックを教えたり、習ったりすることはまねをするなりと厳しく批判して、古今以後の歌は歌ではないと言い切り(何と過激な!)、一般人からはほめそやされている風雅の道のプロの歌人をつぶね(奴隷)という言葉で「浮かれ人の奴隷」と罵倒しているところは、いかにも良寛さんらしい。
一般的に良寛さんは、手まりを子供らとついて遊んでいる乞食坊主{仏陀が生きていた当時のサンガ(僧の集い=僧伽)では僧の生活手段は乞食に限られていた(働いて金を得る事は禁じられていた)}というイメージがありますが、良寛さんは国仙和尚から印可をもらった證契(しょうけい=さとり)の人です。しかし一生涯、死者のためには、1回のお経も読まず、信者を集めて説教をする事を1度もしていません。仏教の悟りの話をすれば、必ず士農工商という江戸幕府の体制の批判になり、すぐ殺されるという事を名主見習いのころからよく知っていました。
しかし、そういった体制に、組み込まれるのをたくみにかわしながら、一仏道修者としての厳しい鍛錬と修業を絶え間なく続けている姿は、もっとも本来の仏教の修行者に近く、徳川幕府の政治的目的の為の庇護で、混乱・頽廃しきっていた当時の日本の仏教界を「僧伽」という漢詩でするどく批判しています。
明治以降の漱石をはじめとする文化人が良寛さんの詩、歌、書に注目、収集し始めた事で良寛さんは世に知られるようになりましたが、彼の”悟りの人”という側面も、もっと崇敬されてしかるべきでしょう。日本の仏教の歴史無くして日本文化はありえません。そして、道元さんと良寛さんが日本の仏教界に残した足跡は、はなはだ大きく、今後さらにその功績が讃えられるでしょう。
こんな逸話が残っています。
ある時、長岡の領主牧野候に、良寛さんの詩や歌や書の文芸的才能が認められて、召しかかえるから出向く様に誘われます。 その時良寛さんは、自分の”徳”だけで人生をわたるという決心があり
焚くほどに風がもて来る落葉かな
という一句を献上して、キッパリと断ったと言われています。
そして「自分には3つの嫌いなものがある。それは詩人の詩、書家の書、包人のセン(料理人の料理)とはっきりと言っています。
こういうのが本当にいいね!なんだよなー。
すごーく長くなりました今日はここまで、あー疲れた。
写真上:農家の畑に咲いていた黄色い百合
中:近所の家の花菖蒲?
下:朝の小雨に煙る近所にある小平の畑