日本人の美意識4 |
こんにちは 何か期待と微妙なズレがあって、昨日なんか強烈に寒かったですね、こういう時期が一番風邪をひきやすいので、皆様くれぐれもご自愛下さい。
とにかく本格的な春が待ち遠しい今日このごろですが、皆様いかがお過ごしですか?まず春を待ちわびる、私の愚作。
かれのさえ はるをもてこい 蓮華草 「枯野さえ 春をもてこい 蓮華草」 (枯野=自分にこそ 春を運んできてほしい 蓮華草よ)若い人には、わっかるかなー、わっからない だろうなーーっ!!
ここのところ3回程、パリをやりましたが、今日はまた万葉、日本人の美意識にもどります。
以前から繰り返していますが、日本の自然美については、疑いも無く世界トップクラスですが、それを捉える日本人の感性について、いろいろ考えています。
✜ 明日よりは 若菜摘まむと標めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ (万葉集 巻8・1427) 山部 赤人
あすよりは わかなつまむと しめしのに きのうもきょうも ゆきはふりつつ
「明日からは若菜を摘もうとしめを結っておいた野に、 昨日も今日も雪が降り注ぐ」
山部 赤人のこの作品は歌の専門家的にいうと、耽美的作品に入るらしいが、そんなことはどうでもよくて、今の
季節の特徴を良く表していると思うので載せてみました。 耽美的という言葉を使う時、そこに少々軽蔑に似た
感情が入っていると思うのは、考えすぎでしょうか? 「美に(耽)ふけってなにが悪い」と開き直りたい所ですが、美術や芸術の教育現場でさえ、あいかわらず セザンヌのほうがルノワールよりも上だという教育が行われています。
好き嫌いではなく、レベルの高低です。私もずいぶん長い間、そのまま信じてセザンヌのほうが、ルノワールより上だと見なしていました。こんな程度の頭デッカチが考えた芸術教育だから、日本人のほとんどが芸術音痴になるのも、いたしかた無しというところでしょうか?(私はルノワールはそれほど好きではありませんが)
ここにUPしている入江さんの花の写真は、純粋でまことに美しい、そればかりではなく、数十年にわたり大和路の花を慈しみつつ撮り続けた入江さんの、愛がここまで花を美しく撮らせているとしか考えられない。
ご本人の言葉を紹介しますと
{「花は美の究極である」という言葉があるが、そのことを、自分で花を撮影するようになって、なるほどと理解した。ことに花は芸術美とは異なり、純粋な美であるから誰にでも容易に理解できる。
美しい花を見た時、絵心のある人は絵によってその感動を表現する。詩心のある人は、歌に詠む。踊りの好きな人は踊りで、唄の好きな人は唄で、といった素朴な感動から、芸術の源が発生したのではないだろうか。
大和路に漂う余情、あるいは気配を、なんとか即物的な写真映像のうちに表し得ないだろうか、と試行錯誤を重ねているうちに、いつの間にか三十年、四十年という月日が経ってしまったのである。
大和路の場合、それほど風光明媚な景観とは言い難い。だが、そのさりげない景観に、風景の「風」の趣きが醸されているのである。風は風味、風趣,風雅、風流、風格などと言う時の風である。それの意味するものが、風景を決める鍵をにぎっているのではないか。それは、風景の中に醸し出される余情、気配といってもいいと思う。つまり目に見えない物、言うにいわれぬ情感、「心象」をさすのではなかろうか。}
最近はデジカメの普及で、シロウトでもある程度の写真が撮れるようになりました。ブログでも花をきれいに写したものの人気は高い。しかし本当に感動的な写真が撮れているでしょうか?
シロウト同士が”いいね!いいね!”というのは勝手に楽しめばよいことですが、言葉にならいもの、目にみえないもの、仏教的に言えば本来の命、自然の命,縁の力を表現しなければいられなくなる、プロフェショナルの心と技の葛藤を理解出来る”ただの人”が増えてほしいものです。長々と、おつきあい有り難うございました。今日はここまで、おやすみなさい。眠たい。
写真3点出典:大和路四季の花/入江 泰吉 写真&文/株 佼成出版社