家族の肖像2 |
こんにちは、ほんと寒いですね。ここは一階がコンクリートの三和土(たたき)になっているので、寒さが足下からじわじわと伝わってきて、体の芯まで冷えきる感じです。
飛騨で家具製作の経験を積む為、量産工場で働いていた時も寒かったですけど、最初から覚悟をしていたので、靴下3枚+ホカロンに上は4〜5枚 下は3〜4で一番上はキルティングの完全防備でやっていたのでなんとかやれましたが。 東京では自分の工房という事でつい気が緩みがちで、少し薄着でもしようものなら大変、今1台しかない石油ファンヒーターを、あっちこっちに動かして使い回しています。
「もう一台買わねばだめかな?」
そんな中、今日は家族の肖像の2です。
男の90%以上はマザコンと言われますが、ご多分にもれず私もそうです。
母が亡くなってからすでに18年が経っているのに、未だに時々、おりにふれ想い出すことがあります。
まったく未練たらしくて、自分でも飽きれますが、男の友達に聞くと、母親の想いでというのはそんなものらしいので、自分だけではなかったのかと少し気が楽になります。女性はどうなんですかね?概してドライだと言われていますが。一番上の写真は昭和18年(1943年)の山梨家の写真です。右から父:稔、長男:総一郎、母:
ふよう 、 次男: 信輔 です。 この時点では私はまだ生まれていません。私は5年後、昭和23年(1948年)の生まれました。家は4人兄弟で
私のすぐ上が、先日の家族の肖像1に載せた淑子(長女)です。そして私は、いわゆる末っ子です。英語でspoiled one(甘やかされたもの)と言いますが、まあ自分でも”末っ子的な性格はある”と自覚しています。上の写真は見つめ合う親子と言った感じですが、母:ふよう ー左 と祖母(オバアチャン):山脇敏子です。母はおそらく16〜18歳ぐらいでしょうか?さすが、服飾界の先駆者の娘だけに、なにやら変わった服をきせられています。
この下の写真母の古いアルバムから抜粋したもの母の子供のころから女学校(女学館)のころの写真が一杯あります。母はどちらかというと祖父(津田青楓)に似ていて、私がいうのもなんですが、結構端正なほうです。私が20歳代の時、アメリカに住んでいる長男:総一郎の結婚を祝う為にアメリカを訪問した時、いろいろな所で、冗談まじりに、お前の母上は、美しくてエレガントなのに、お前は”もらいっ子”かと言われたりしたもんです。
そういえば母と一緒にいった、ニューヨークのジミーライアンズというJAZZ CLUBで、ライブで演奏していたバンドがその日は母の誕生日だったので、比較的空いていたこともあり、特別に演奏してくれてレコードまで記念にくれて、もりあがり良かったですね。いい想いでです。
この写真は母:ふようの70歳代の写真です。平成6年に78歳で亡くなりましたが、未だにいろいろな事が忘れられない、すてきな母でした。
なお1月22日の家族の肖像1で津田青楓と山脇敏子の名をクリックしてもwikiにリンクが繋がらなかった方失礼しました、今はつながりますのでよろしくまたfacebookの私のページもどうぞよろしく